昭和51年07月28日 朝の御理解
御理解 第95節
「世には神を売って食う者が多いが、此方は銭金では拝まぬ。神を商法にしてはならぬぞ。」
教祖が銭金で拝まぬ。信心をただおかげというか、生活のたしに神様を仰視する、神様をただおかげを受けるためだけに使うと言った様な事はしない、又はそうしてはならないという教祖の御信心、神様に対する神様を受けておられる頂きの姿勢だと思うんです。例えば御神符ですかね、お守り札を売るとか、御祈祷料を取るとかそういう今で言うと、交通安全祈願を車一台五千円、または一万円というようにまぁ高いところがあるそうですが、そういうことではない。
例えばここでは皆さんが御信心を頂いておられて、なら交通安全祈願ということでも、皆さんのいうならば周囲に、知っておられる方達にも皆んなそのおかげ頂かれる事を話して、お初穂を事預かって来られたりしてお願いをなさる。かと言うとお初穂もなにもことずからんなりに、ならお願いしますという人もある。沢山なそういう交通安全祈願が、ちょうどこのう夏期信行が始まって一月間は、まぁだあそこへお供えしたままです。
はらえつものも交通祈願も。そして毎日これはお供えをしとるからどうぞききますように、これはお供えしてないからどうでんよかと言った様な者ではない、皆んな一律に一生懸命に、毎日毎日御祈念をここでさせて頂いております。いわゆる銭金で拝まんという訳なんです。そしてまた事実おかげを受けておるということであります。だからそういうそのう銭金では拝まんというところに、真の信心と言われる内容があると思うんですね。
例えば宗教を見分ける、早くあのう宗教はどうかと言う様な事を、あのう見分けるための一つとしてです、金を強要する。お供えがなければ、おかげは頂かれんと言う様な宗教は、もう本当な宗教じゃないとも、これは一つでもそういう風に言う人がある位ですからね。ましてやお守り札、交通安全の札を金で売ると言った様な事は、あれは真の信心はそれだけでも、劣っているということになりますけれども、そういう教祖の信心内容を、私共がどう受けたらよいのか。
祈願詞にもありますように、天地の道理、いわゆる事訳を知らずして悩み苦しみ、苦しむ人々のというとこがございますね。天地の道理、天地の事訳を知らないで、そして難儀をしておる氏子が、世の中には沢山あるというのです。だから天地のことわけ、天地の道理を分からせて、そして幸せになってくれよというのが、天地の親神様の願いでありますから、それを取り次いで下さる金光大神も、またその金光大神の手足となって、御用させて頂く私共もです。
天地の道理を分かる、いわゆる本当の信心を分かって、おかげを頂いて下さいよというのが、お道の信心なんですね。そこで私は今日は咄嗟にこんな事を、この九十五節から感じさせて頂いたんです。まぁこの九十五節のいうならば、ごろというかを真似て言うなら、こういうことになります。信心も出来ずして、おかげを頂きたいという人が多いが、私は信心を頂きそして後に頂きたい。信心をおかげのおかげ目当てにしてはならぬ。という風に頂くべきだと思いますね。
私はもし信心も出来ずして、おかげおかげと言う人はですね、ちょうど信心を商法に使うてはならんと仰るが、神様をですねいうならば商売人の方が、今日はどこどこに集金に参ります、今日はどごどこの手形が落てませんからというてです、手形が落てますように、集金が寄りますようにというて、もし願うだけならば、神様を商法に使っているのとも同んなじでしょうが。まるきりそれこそ調法な番頭さんのごと思うとる。手形落としの神じゃない神様は集金人じゃないと、神様が仰られるとこじゃないでしょうか。
だから私共の難儀のすべて、例えば商売人が、今日手形がこうこうなっとりますから、万事お繰り合わせお願い申しますと。今日どこどこの集金にやらせて頂きますから、どうぞよろしくお願いしますと、お願いはさせて頂きます、いやさせて頂かねばなりません。けれども、その裏付けとしてです、それが願えるだけの信心道理、いうならことわけをわきまえての、願いでなからなければならんと、いうことでございます。神を商法に使うてはならん。
もう以前の事でしたけれども、秋永先生がある会合でこういう発表をしておりました。もし今神様が私にこれこれのおかげをやるとおうせられたら、私は必ずお断りするでしょうと言う事を言っておりました。神様暫く待って下さいと、今頂いたんでは力もないのに却って困りますもう暫く待って下さい。もう暫く私が信心が出来てから、天地の事訳を分かってから、その天地の道理をふんまえて、生活が出来商売が出来るようにならせて頂くまで、もう暫くおかげはそっちで預かっとって下さい。と言う訳なんです。
私はね今日はこの九十五節から、そこんところを皆さんに分かって頂きたい。おかげ急ぎをするのじゃいかん。もう受けものさえ出来たら、神様は絶対なのだからということを信じて、その受けものをつくることに一生懸命精進させてもらう、そして受けものが出来ぬ先に、神様がおかげを下さろうとするならばです、それを暫く待って下さいと、神様におかげのお断りをする位な信心が、私は必要だという風に思います。
昨日、私は或る方のお商売をなさっておられる、難儀な問題を聞いておると本当に難儀な事です。いうなら債鬼にせめられると言うが、確かにこの借金というのは鬼と同じですよね。債鬼とやっぱりね鬼という字が書いてあります。これは私ももうそこを充分通らせて頂いておるから、その心情が分からんではない。けれどもならそういう時にです、私は百万円の宝くじがいっちょ当たったら、よかろうと思うた事は一辺もありません。そりゃ以前はありますよ。
それこそお参りしながらです、本当にここに金が十万ばっかり落てとらんじゃろうかと、落てとるならもう絶対今の私しは警察には持っていかんじゃろう、神様からこれは下さったと思うて頂くじゃろうと、言う様な心の状態の時もありました。ところがそういう時分に確かに拾ったです私は。その十万じゃないけれども、あの時分に十何円かだったでしょうか。けれどもその時分の十何円ち言うのは、私にとっても大変な、けれどもそればってんそれば自分の身につけようとは、その時さらさら思いませんでした。
そういう風に思いよったけれども、実際はほんなら拾うてみるとです、はぁこりゃあ本当に困っとんなさるじゃろうと思うてから。それからあのうちょうど高橋さんところの近所に、千代町の交番所があります。それでそこに届けたらえらいそのプンプンされた事がありました。もうこん位なら自分が貰うとけばよかとにと言わんばっかりにですね、もうせからしかと言う風に言われた事がありました。
昨日テレビを見せて頂きよったら、家内が言うんです。以前あの田中総理のロッキードの事件に、ほんなこつあの人が主役にならっしゃらなんごたる感じですね、今度は。それで家内が見ながら言うんですよ。ほんにあちらが若くて大臣になられた時にはね、もうお母さんが涙を流して、喜んでおられる様子があのテレビで見たが、本当にこれを見てからお母さんがどげん思いなさるじゃろかと言うんですよ。ほんなこつね、この人は金は力なりと豪語しとった人です。
成る程金は力です。けれどもねそれこそ地獄の沙汰も金次第と言う位ですけれども、極楽の世界だけは金次第と言う訳にはいかんのだということです。それこそ有頂天時代があられて、とにかくそれこそ何億のお金をばらまいて、政治資金にいうなら使われたでしょうけれどもです、それこそ金は力で人を自由自在に、それが出来たでしょうけれども、年月が経って分からせて頂く事は、金は力ではなくて金は毒害であったということが分かるでしょう。人間悪に走らせる。
人間をいうなら堕落させるもので他ないということが分かるでしょう。その金そのものにいうならば、天地の信用が伴うていないからです。だから秋永先生が今例えばここにおかげば下さろう、お金を下さろうと言うてもです、いや神様もう暫く待って下さい、私にそれが頂けれる力を頂けるまで、預かっておいて下さいという意味が分かるでしょう。皆さん本当におかげおかげ、お金お金と例えば言うておる事は、決して頂いたおかげが本当の事にならない事を、一つようく分からせて頂いてね。
今日皆さんに聞いて頂くようにね、信心も出来ずしておかげを頂きたいと言う人が多いけれども、私は信心を頂きそして後に頂きたい、信心をおかげの目当てにしてはならない、信心を神様を商売の道具のように、まるきり神様を使い回すような生き方だけは、してはならないということを、肝に銘じてのおかげを頂かなければならんのです。今も申しますように、昨日いうなら最近責め立てられて、もうどうにもにっちもさっちもいかんという人のお届けを、一つさせて頂きよりましたら、歌の文句にこんな歌があります。
「何をくよくよ川端柳 水の流れを見て暮らす」ということを頂いた。見て暮らすだけじゃいかんぞと、信心を長年させて頂きよって、何をくよくよしたことを言うかと。こういういよいよにっちもさっちもいかんと言う時こそ、水の流れを見て暮らすのじゃない、そのお恵みを頂くのだぞと。頂くには今の姿勢では頂けんのだぞと。一家をあげて改まる時は今だぞと、と神様が言うてござると私は思わせて頂いた。
信心なしとる、ただそればってん合楽でいうなら、こういう一つの御ひれいを、みなさんが見たり聞いたりしておるだけじゃ詰まらんのだと、お話しを聞いておるだけでは詰まらんのだと。「何をくよくよ川端柳 水の流れを見て暮らす」ではなくてです、くよくよ言わねばならない時こそ、信心を頂かなければならない時だぞというのです。そこでです、そのおかげの頂けれる信心とは、これは本当のおかげを頂くためには、先ず家庭が勢を揃えた信心をしなければならないということです。
でないと頂いたおかげに不浄がつきます。例えばお父さんが一人粉心な信心をして、どんなにおかげ頂いたというても、はぁりゃ家のお父さんのやりようがよかけんで儲かったと言う。どうでも家庭勢を揃えて本当におかげですねと、これこそ神様のいうならご心情という裏付けのある、これはいうならばお金ですね、物ですねと話し合える家庭の信心がまず必要です。
今日私皆さんに聞いて頂いておるのは、いわゆる本当に神様が安心して下さる事のおかげということです。そして勢をそろえる事です。どういう例えば問題がありましても、信心の家族が集まって、信心の頂いておる教えを改めて頂き直してみると、答えがすぐ出てくる。分からんところは親先生にお取次ぎを願っておかげを頂く。もうその一言で答えが出てくる信心があると。
これは御理解百節にありますように、「祝いめでたの若松様よ 枝も栄える葉も茂ると言うではないかと、金光大神は家繁盛子孫繁盛の道を教えるのじゃ」という私はそういう道に出て、そういう道を体得しておかげを頂いていく。いわゆる家繁盛だけではなくて、子孫にまでも繋がる程しの、繁盛のおかげを頂くためには、信心の教祖が教えて下さる道をまず頂かなければならない。それも私一人ではない、家族が勢を揃えての信心でなからなければならないということであります。
そこに至る時にです、初めて神様が安心してというか、喜んで下さるおかげ、こちらも安心して喜んでおかげが頂けれるということになります。もうこれならばいよいよ繁盛に繋がるおかげになって来るです。神様を教祖は商法に使うてはならんと言うておられる。ならこれはお取次ぎをなさる先生方に、これは教えられた御教えであろうと思います。あんた達が今から布教に出る。金光様のご信心だけは決して銭金で拝むのじゃないぞ。銭金でお取次するのじゃないぞと。
世にはいうならば神様を商法にする様な宗教家もあるけれども、金光教の信心だけはそうではないぞ、人が助かる事さえ出来ればというのであるぞという、厳しい教えであろうと思います。だからこれを信者側の私共皆さんが頂くならばです、神様を商法にしてはならん。ただ神様を番頭さんに使うたり、神様を集金人の様に思うたりする様な信心ではならない。どこまでも神様のお働きを頂かなければ、確かにここ一寸動かれない私共であるとしてみればです、天地の道理を分かれば分かる程そうなのですけれども。
その天地の道理に基づいて、神様のおかげを頂かなければ立ち行かないそこの信心をふんまえて道理を分かり、道理におうた信心生活をさせて頂いてからの、そこが分かってからの私はおかげでなからなければ、本当なおかげということにはならないと思う。いうならば神様が安心して喜んで下さるところのおかげでなからなければ、いうなら子孫繁盛、家繁盛と言った様なおかげは繋がらないということを、今日は聞いて頂きましたね。
どうぞ。